Ferdinand Hiller (1811-1885)

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▲Ferdinand Hillerの肖像 Gallica / Bibliothèque nationale de France より 加工・転載

「お友達ならヒラー、夫ならショパン、愛人ならリスト」

これは、19世紀の社交界で交わされた言葉です。ショパンとリストは今日でもお馴染みの名前ですが、ヒラーというのは、ドイツのピアニスト・作曲家・指揮者であったフェルディナント・ヒラー(Ferdinand Hiller, 1811-1885)のことです。今回は、彼についてご紹介したいと思います。

ヒラーは、フランクフルト・アム・マインの裕福なユダヤ人家庭に生まれました。ホフマン[1]にヴァイオリン、アロイス・シュミット[2]にピアノ、フォルヴァイラー[3]に和声法・対位法を師事し、10歳の頃には、モーツァルトの協奏曲を聴衆の前で演奏したといいます。1825年には、ヴァイマールでフンメルの弟子となり、更なる研鑽を積みました。1827年には、フンメルとともにウィーンへと向かいますが、その際、ベートーヴェンの死の床にも立ち会ったそうです。

1828年から約7年の間、ヒラーは、パリで暮らしました。初めは、ショロン[4]の王立古典宗教音楽学校(Institution royale de musique classique et religieuse)で教員を務めましたが、やがて、ピアニストや作曲家として独立した音楽活動を行うようになりました。社交的な性格だったヒラーは、パリで、ショパンやリスト、ロッシーニ、マイヤーベーア、ケルビーニ等といった楽壇の多数の著名人たちと親交を結んでいます。

1836年、ヒラーは、フランクフルトに帰郷し、病躯のシェルブレ[5]の代理としてチェチーリア協会(Cäcilienverein)の指揮者を務めました。その後、彼はミラノを訪れ、歌劇「ロミルダ(Romilda)」を書き上げ、ロッシーニの支援を得て1839年にスカラ座で上演しますが、不成功に終わっています。その翌年には、メンデルスゾーンの助力で自作オラトリオ「エルサレムの崩壊(Die Zerstörung Jerusalems)」(Op.24)をライプツィヒのゲヴァントハウスで上演しましたが、こちらの作品は好評を博したようで、後に、フランクフルト、ベルリン、ドレスデン、ウィーン、アムステルダム等の諸都市でも上演されることとなりました。1841年には、ローマへ赴き、バイーニ[6]の下で、イタリアの古典教会音楽の研究に勤しんでいます。

1843年から翌年まで、ヒラーは、ライプツィヒのゲヴァントハウスで指揮者を務めました。その後、ドレスデンへ行き、そこで「クリスマス・イヴの夢(Traum in der Christnacht)」(1845)と「コンラディン(Conradin)」(1847)の2作の歌劇を上演しましたが、これらもまた不成功に終わりました。なお、ヒラーは、この頃にシューマンと親交を結んでいます。

1847年、ヒラーは、デュッセルドルフの楽長に就任し、1850年には、ケルンで同様の地位に就きました。同年には、ケルン音楽院を創設し、その初代院長を務めています。その傍らも、ヒラーは、パリのイタリア劇場(1852-53)やギュルツェニヒ管弦楽団の指揮を執ったり、ライン音楽祭の監督を務めるなど精力的な活動を行いました。

1884年、ヒラーは、病気のため音楽活動から引退し、その翌年、73歳で生涯を閉じました。

ヒラーは、200以上もの作品を残しましたが、そのジャンルは、歌劇、オラトリオ、交響曲、ピアノ協奏曲、室内楽曲、ピアノ曲など多岐に及んでいます。また、「音楽と聴衆(Das Musik und das Publikum)」(1864)、「フェリクス・メンデルスゾーン=バルトルディ:手紙と追憶(Felix Mendelssohn Bartholdy: Briefe und Erinnerungen)」(1874)、「Musikalisches und Persönliches」(1876)等といった音楽関連の著作も残しました。

皮肉にも、ヒラーは、このように多面的に才能を発揮したが故に、後世の人々が、その実態を絞り込むことが出来ず、忘れ去られてしまうことになったのではないかともいわれています。

[1]Heinrich Anton Hoffmann(1770-1842)だろうか?
[2]Aloys Schmitt(1788-1866):ドイツの著名なピアノ教師・作曲家。
[3]Carl Vollweiler(1813-1848)という作曲家の父が、フランクフルトで教鞭を執っていたようだが、この人だろうか?
[4]Alexandre-Ètienne Choron(1771-1834)
[5]Johann Nepomuk Schelble(1789-1837)
[6]Giuseppe Baini(1775-1844):イタリアの作曲家・聖職者。パレストリーナの研究で名高い。




6つのエチュード組曲 Six Suites d'Etudes Op.15 より 第1組曲 No.2, No.4

グランドオペラの大家マイヤーベーア(Giacomo Meyerbeer, 1791-1864)に献呈された全24曲から成る練習曲集。第2番は、アルカンの「鉄道」のモデルになった作品だといわれています。



13/04/21 追加

4つの夢想曲 Quatre Rêveries Op.21 より 第1番

感傷的で美しい小品です。ショパンの夜想曲の影響を感じさせます。



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