Jan Bedřich Kittl (1806-1868)

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▲Jan Bedřich Kittlの肖像 Österreichische Nationalbibliothek より 加工・転載

19世紀チェコの作曲家というと、スメタナやドヴォルジャークが思い浮かぶと思いますが、彼らより一世代前に活躍した作曲家の一人にヤン・ベドジフ・キットル(Jan Bedřich Kittl, 1806-1868)がいます。

彼は、オルリーク(Orlík)城に勤める裁判官の息子として生まれ、幼い頃より城の音楽教師から教育を受けピアノの演奏を習得しました。フェティスによれば、9歳の頃[1]に学校へ通うためにプラハへ移りますが、13歳の頃[2]に再びピアノの練習を再開したといいます。初めはとあるアマチュアから、続いてサヴォラ(Sawora)という名の音楽家から指導を受けたそうです。16歳の頃[3]に初めての作曲をし、和声や対位法の理論をまだ習得していないにもかかわらず、ミサ曲や歌劇「ダフニスの墓 Daphnis Grab」(1825)を書き上げています。その後、彼はプラハ大学で法学を専攻しながら、トマーシェク(Wikipedia)から和声法を学びました。法学を修めてからも、財務に携わる役人を志す傍ら、同師から対位法の指導を受けています。最終的には、彼は法律家としての道を絶って、音楽に身を捧げました。

1836年に開いた演奏会では、自作の九重奏曲や七重奏曲、歌曲等を披露したところ、音楽新聞から前途有望な作曲家として評価されました。1842年にプラハ音楽院の学長フリードリヒ・ディオニス・ウェーバー(Wikipedia)が死去すると、キットルはその地位を引き継ぐこととなりました。彼は、1865年までその職を務め、その後、ポーランドのレシュノに隠退しています。

作品は、歌劇(リヒャルト・ワーグナーの台本による「ビアンカとジュゼッペ、またはニースのフランス人 Bianca und Giuseppe, oder Die Franzosen vor Nizza」(1848)等)、ミサ曲、交響曲(「第2番『狩』 Op.9」等)、室内楽曲、ピアノ曲、歌曲など多岐のジャンルに亘っています。

キットルは、チェコ音楽史において重要そうな存在でありながら、現時点で録音は殆ど存在していません。WEB上で利用可能な楽譜も多くありません。今回紹介する「6つの牧歌 Op.1」は、キットルのピアノ作品で私が楽譜を確認することが出来た唯一のものです。その楽譜も恐らく比較的最近になって利用可能となったものです(こちらで閲覧できます)。

[1][2][3] フェティスは、キットルの生年を1806年ではなく1809年としているため、それに伴い、これらの年齢も実際とは3歳ずれている可能性が高そうです。




6つの牧歌 Six Idylles Op.1 より No.3 成就した恋 Amour exaucé

キットルの師トマーシェクに献呈された曲集です。

ロベルト・シューマンは、この曲集について批評を残しています。
シューマンは、この曲集には田舎的、牧人的なものを期待させる「牧歌」というタイトルが付けられているが即興曲とでも呼んだ方が相応しいと指摘し、不適切な命名は先入観を持たせてしまうと述べています。牧歌(Idylle)[4]を初めて作曲した人物である恩師トマーシェクを喜ばせるために、このようなタイトルにしたのではないかとシューマンは推測しています。また、個々の曲に付けられた表題に対しても音楽の内容に殆ど合致していないと非難しています。なお、シューマンは、このOp.1の牧歌集だけでなくOp.2の牧歌集についても批評をしていますが(Op.1よりOp.2の批評の方が先に書かれている)、そこでも音楽と表題の不一致について不満を呈しています。
しかし、シューマンは、表題に対する疑問を傍らに置けば、第一作にしては稀に見る質を備えていると評価し、フランスやイタリアの様式に安易に靡かない徹底した国民性、穏当な和声、自然さや簡素さを獲得しようとする努力が見いだせると述べています。ただし、終止部において時折リズムが不適切であるとも指摘しています。

[4] 私が知る限りでは、トマーシェクは「Idylle」という曲を書いていませんが、同じく牧歌と訳される「Eclogue」と題された曲を多数残しています。トマーシェクが牧歌の創始者であるという記述の真偽は未確認です。




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